茶碗の器面を巡る左右に、枝を伸ばした紅梅の樹を描ており、咲き誇る梅の老樹をあたかも蒔絵の様な趣きで艶やかに描いている。
狩野派風の巧みに装飾図案化された梅の樹幹は、黒の骨描に金銀で彩り、赤い花には金で蕊(しべ)を描き、蕾には緑を配し、銀の花は赤で縁取っている。
花々と梢の間には、まばゆく金彩の源氏雲を配して絢爛にして優雅な世界を作っている。
器作りは轆轤挽の技が冴え、総体薄手で成形はすこぶる優れ、姿は端正である。
これに独特の温雅な白いいわゆる仁清釉が施されて、細かな貫入が無数に入ったその釉調は、優美な姿に良くかなって如何にも京焼らしい風格を漂わせて趣き深く、誠に茶道に適った使いやすい茶碗となっている。
【参考】野々村仁清(ののむら にんせい)
江戸時代前期~中期の陶工 通称:清右衛門
京焼色絵の祖と言われる仁清は、丹波國桑田郡野々村(京都府南丹市美山町旧大野村)の生まれで、若い頃は丹波立杭窯や京都粟田口などで陶芸を修業し、その後、瀬戸で轆轤挽の技術に磨きをかけたのち京都に戻り、正保4年(1647)に前年再建された仁和寺の御用窯として門前に御室窯を開きました。
仁清御室窯の一番の推進者は金森宗和で、粟田口で修業していた清右衛門を見出し、宗和好みの茶入や茶碗、茶道具を作り、宗和はこれを茶会で使用宣伝し、さらに箱(宗和箱)、仕覆を誂えることにより付加価値を付けて公家や武家に斡旋し、宗和が亡くなる明暦2年(1656)まで約9年間、強力に清右衛門と御室焼をプロデュースしました。
仁清の支援者でもあった丸亀京極家には、藤花図茶壺や龍図茶壺など多くの仁清作品が伝来していました。
仁清 色絵梅花文茶碗
時代 江戸前期
口径 12.3cm
高さ 8.5cm
高台径 5.5cm
付属品 蘇芳地金襴仕覆・更紗包布
その他 --