桃山陶の影響を色濃く残したやや稚拙さの見える作振りで、腰が張り胴部は素直に立ち上がる半筒形の形は、瀬戸黒との近似性を想起させ、慶長後期の作と思われる古絵志野茶碗である。
轆轤水挽成形後、手づくねで変化を加え、側面各部に箆目を付けている。
腰が張り胴部が素直に立ち上がる半筒形の形は、白く良く溶けた志野釉膚と相まって神々しく具へ器の様にも見えてくる。
文様は、能舞台の鏡板に描かれる影向の松であろうか、大きく松の枝と遠くの松原を描いており、絵全体に志野釉が厚く掛かり幻想的な趣きを醸し出している。
腰の下周りには浅く箆目を廻し彫されており、底面は不定形な三角形の釉掛け残しを作り、百草土の土見せの中にやや小振りな古格のある二重高台を削り出している。
器全体に良く溶けた志野の釉膚は、やや還元焔的な焼成条件の下での焼成であろうか、口縁也一部に薄く火色が出ているが全体的には白く焼き上って、神々しい輝きを見せて古格と存在感を併せ持った古志野茶碗である。
【参考】影向(ようごう)
影向とは:神仏が現世に降臨することを言う
能舞台や歌舞伎の舞台正面の鏡板に大きく描かれている松の絵を「影向の松」と言い、古に春日の宮の参道に植わっていた松がこれのもととなった。
【参考】裏千家十三世 円能斎(えんのうさい)
(号:圓能斎/鉄中宗室/対流軒、1872–1924)
裏千家十三代家元。明治~大正の近代化のただ中で、茶の湯を教育と出版を通じて大きく普及させ、現代裏千家の基盤を築いた人物である。女学校への茶道導入(のちの「学校茶道」)と、その指導者養成のための夏季講習会(1911年創始)を制度化。加えて、家元として初めて点前・茶道具に関する書籍や機関誌『今日庵月報』を公刊し、情報発信と作法の標準化を進めた。晩年は第13回夏季講習の開催中に逝去。近代茶道の刷新者として“開かれた茶道”を推進した。
主な功績とトピック
学校茶道の制度化と普及:女学校教育に茶道を取り入れ、若い世代・女性層へ門戸を開いた。あわせて夏季講習会を創設(以後、今日まで継続)。
出版とカリキュラムの整備:機関誌『今日庵月報』を創刊(1908/明治41)。点前・道具の書籍も公刊し、教授法を体系化した。
衛生観念に応じた点前の創案:「濃茶・各服点(かくふくだて)」—濃茶を客ごとに一碗ずつ練る作法—を考案。回し飲みを避ける近代的配慮として生まれ、コロナ禍でも再注目された。初出は明治44年(1911)の記載が確認される。
好みの広間「対流軒(たいりゅうけん)」:自身の手蹟による扁額を掲げた広間で、素材の取り合わせと意匠に、伝統継承と発展への意志を託した。
人となり・逸話
幼少より家督を担うことになり(若年での継承)、近代国家形成期の荒波の中で家政と道統の再建に心血を注いだ。思想は進歩的・実務的で、雑誌創刊や講習制度など“制度の力”で茶道を社会へ接続した点に特色がある。晩年、講習会の最中に53歳で没。
作品・好み物
展覧会出品例に、「雪輪香合(好)」、「日出棗(好)」、竹茶杓、赤茶碗「晴雪」などがある。
年譜(要点)
1872(明治5) 京都に生まれる。父は十二代・又玅斎宗室。
1880年代末 若年で家元を継承。近代化と京都文化の変動下で家政再建に着手。
1908(明治41) 『今日庵月報』創刊。
1911(明治44) 夏季講習会創始/濃茶・各服点の記載が最初に確認される年。
1924(大正13) 第13回夏季講習会の開催中に逝去。
古志野松文茶碗「銘 影向」(円能斎箱)
時代 桃山~江戸初期
口径 12.5~13.0cm
高さ 7.5cm
高台径 5.5cm
付属品 時代桐箱・縮緬仕覆・古布包布
その他 円能斎書付箱(裏千家十三世)
