益田鈍翁(孝)旧蔵、八方庵伝来の桃山古鼠志野茶碗である。
端正に轆轤水挽された半筒形の茶碗で、形はおだやかで豊かな腰張りを見せるなか、底面腰下際を浅く箆削りし、やや腰高風に見せている。
口作りは、口縁下に浅く轆轤目を廻し、やや端反りぎみの穏やかな起伏のある山路としている。
口縁から見る見込は広くて深く、中央に丸く茶溜りを作っている。
器底面畳付は土見を少し残した中に比較的素直な付高台を箆作りしている。
本茶碗の釉膚は鼠志野としては柔らかく滑らかで、口縁や胴部の所々に鮮やかな赤味が現われ大へん味わい深い釉膚を見せてくれている。
器全体に鬼板下地を施し、一部に早苗か茅を細く箆彫りし、全体に厚く長石釉を掛け、箆彫りした一部の上掛け釉薬を掻き落としたあとに見える絵も言えぬ文様が浮き出ている。
また裏側には檜垣風の文様も薄く垣間見え、それらから観える風景から想いを馳せ、銘を田家としたのであろうか。
見て来たように、おおらかで大変趣き深く、古格のある鼠志野茶碗である。
【参考】益田鈍翁(どんのう・本名 孝)
1848年(嘉永元年)佐渡生まれ。10代初めから英語を学び、15歳で幕府の使節に同行して渡欧した。
維新後、井上馨と共に設立した貿易会社「先収会社」の頭取を経て、76年(明治9年)27歳で三井物産の初代社長に就任。
「中外物価新報」後の(日本経済新聞)を創刊した。
三井財閥の経営をめぐっては、三井銀行の中上川彦次郎との対立で不遇の時もあったが、中上川の死後、最高経営者となり同財閥を日本最大に育て上げた。
30代から茶会を主催し、茶道復興の立役者ともなった。
毎年のように開いた茶会「大師会」には三井系の財界人はじめ、三菱の岩崎弥之助、建築家コンドル、岡倉天心なども集まった。
収集した美術品は質、量ともに当代随一と言われたが、没後に四散し、現在、一部は美術館などに分蔵されている。
1938年に90歳で死去。
古鼠志野茶碗「銘 田家」
時代 桃山~江戸初期
口径 12.3cm
高さ 9.1cm
高台径 6.3cm
付属品 時代二重箱(屋久杉内箱・益田鈍翁書付)
その他 時代布仕覆・更紗包布