形状や大きさから見て、当初からお茶入として作られたものであろうと思われる。
鉄分のやや多い胎土を轆轤水挽成形で胴締肩衝形に成形された茶入で、高台は砂引高台とし、高台際に箆による小さく多面取りが施され景色の一部となっている。
また胴部に一箇所小さな石はぜがあり、これもまた趣きある景色の一部と言えよう。茶入の胴部表裏全体に点紋と草木を表したものか幾何文様を鉄奬で描かれている。
畳付底部を除いて長石釉がかけられ、酸化焔による淡い茶褐色の発色と、細かく無数の貫入が見られ露胎の底部は濃い茶褐色を呈していて、小柄ながら趣きある古格を醸し出している。蓋は時代のある象牙蓋が付き、本圀寺金襴の仕覆が付属する。
箱は、裏千家十二世 又妙斎 書付箱「銘 深やま路」納となっている。
【参考】古唐津
古唐津は素朴な焼き物である。そこには美しい色彩、見事な形姿、精緻な絵文様などは見られない。
色彩は地味な灰色や茶褐色、白と黒など無彩色に近く、形姿も特に目立つものではなく、絵文様もいたずら描きに近いような簡 単なもので地味で平凡な目立たない焼き物である。
こんな古唐津が古陶磁の世界において圧倒的な人気を誇り、古来から珍重されてきた。
日本人にとって古唐津には特別な魅力があったと思われ、景色、土味、手触り、映り、古色などの要素は、日本人が長い間に熟成させて来た独自の美意識で、古唐津はこの五つの要素をより強く内包し、その魅力を放射している様に見える。
唐津焼の名称が文献に登場するのは慶長七年(1602)年頃であるが、文禄慶長以前から唐津市南郊、北波多村にある松浦党岸岳城山麓で唐津焼が焼かれていた。文禄慶長の役後、朝鮮半島や華南地方から多数の陶工が渡来し、岸岳陶工と合流して肥前地方に多数の窯を開窯した。
慶長中期から元和末にかけての約40年間が隆盛期で国内外に多く唐津物と呼称し頒布されていった。
【参考】裏千家十二世 又妙斎(ゆうみょうさい)直叟宗室
(号:又妙斎 名:直叟宗室 1852–1917)
裏千家十二代家元。京の名家・角倉家の二男として生まれ、十一世・玄々斎(千宗室)に男子がなかったため明治4年(1871)に婿入りして家督を継いだ。
明治維新後の廃藩置県などで大名家からの扶持が失われるなか、1885年(明治18)に三十七歳で長男(のちの十三世・圓能斎)へ家督を早期譲渡し、自身は山崎の妙喜庵に隠退した。
夫人(真清院・旧名ゆか子/玄々斎の娘)は女子中等教育への茶道導入を積極的に推進し、学校茶道の端緒を開いた。
出自と継承:京都・角倉家の二男として生まれ、1871年に玄々斎の娘・ゆか子(のち真清院)と結婚、婿養子として裏千家十二代を継いだ。
近代化の激動:維新後の制度改革で、代々奉仕してきた大名家からの扶持が失われ宗家経営は打撃を受ける。この「暗い時代」を背景に、1885年(37歳)で長男に家督を譲って妙喜庵に隠退した。
学校茶道の端緒:十二世期に、夫人・真清院が女子中等教育へ茶の湯を導入。京都府立新英学校・女紅場(現・府立鴨沂高校)に1872年、十二代夫人が茶道師範として迎えられたのが嚆矢と宗家公式に記される。
以後、各地女学校に「茶儀科」として採用が広がり、のちの夏期講習や制度化へつながった。
継承の準備:長男・駒吉(のちの十三世・圓能斎)は十二歳で家督を継ぎ、後年、雑誌『今日庵月報』創刊や夏期講習制度など近代的普及の梃子を打ち出す。この基盤形成の一環として、十二世の早期譲渡と隠退が位置づけられる。
夫人・真清院(ゆか子)の教育面での役割
裏千家公式の英文史では、真清院は女子中等学校で最初に茶の湯を教えた人物と明記される。
宗家日本語サイトでも、1872年の京都府立新英学校・女紅場で十二代夫人が師範に迎えられたことが学校茶道の始まりとされる。
年譜(要点)
1852 角倉家に生まれる。
1871(明治4) 玄々斎の娘・ゆか子(真清院)と結婚、裏千家に入婿。十二代を継ぐ。
1872(明治5) 京都府立新英学校・女紅場で**十二代夫人が茶道師範に就く(学校茶道の端緒)。
1885(明治18) 三十七歳で長男(駒吉=のちの十三世・圓能斎)に家督を譲る。山崎・妙喜庵へ隠退。
1917(大正6) 没。
古唐津茶入「銘 深やま路」
時代 桃山時代
口径 3.6cm
高さ 5.6cm
胴径 6.5cm
付属品 象牙蓋・金襴仕覆・時代桐箱・包布
その他 本圀寺金襴(鶺鴒文)
