桃山時代に新しく誕生した斬新な美濃で焼かれた茶陶類の中で、時風を受け止めて伸びやかに力強い作風が示されているのは、志野茶碗であり、中でも本茶碗は大振りですこぶる豪快な作行を示しており美濃大萱牟田洞の大窯での所産と思われる。
百草土を轆轤水挽成形で挽上げ、やや腰高で半筒形の姿は力強く重厚感を備えている。
口下辺に段をもうけ、口縁をやや外反にして穏やかな山路を作っている。
胴部は上半部に轆轤目を残し、下半部を箆使いした撫で仕上げされて器肌に変化を持たせており、表裏にも鋭い竪箆目を入れている。
器の見込には円形に丸く凹む茶溜りを付けている。底部は低い高台が削り出され二重高台となっている。
志野釉は高台際の土見せを無造作に残して施釉され、たっぷりと掛かった特有の濁りある白色を呈し、口縁や器面の所々に現れた火色が発色し、柚子肌に焼き上った志野釉にほのかな赤味が生じて柔和な雰囲気を醸し出している。
茶碗胴中央部に鉄絵で大きく輪宝文を描き、裏面には暦文を描いている。
本茶碗は初代黒田陶々菴書付箱(内箱)に納まる。
【参考】初代 黒田陶々菴
初代 黒田陶々菴(くろだ とうとうあん、本名・黒田領治、1905~1987)は、昭和の日本陶芸界を支えた美術商・陶磁研究家である。愛知県に生まれ、14歳で東京・銀座の陶器店に奉公し、若くして陶磁器の世界に入った。1933年には北大路魯山人と出会い、やがて深い交流を持つようになる。
1935年、30歳で独立し、日本橋に「黒田風雅陶苑」を開業した。現在の銀座黒田陶苑の前身であり、当初は魯山人作品の専売店として出発している。陶々菴は作品を販売するだけでなく、魯山人の新作展や作品展を企画し、その芸術を広く紹介した。魯山人が今日のように近代陶芸を代表する巨匠として評価される過程において、陶々菴が果たした役割は小さくない。
その後も、板谷波山、富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎、荒川豊蔵、石黒宗麿、加藤唐九郎、金重陶陽など、近代日本陶芸を代表する多くの作家と交流し、その作品を世に送り出した。後に人間国宝となった作家も多く、陶々菴は優れた作品を見抜く確かな眼を持った人物として知られた。
また、美術商としてだけでなく、陶磁研究家・評論家としても活動した。日本陶磁協会の運営や日本陶磁協会賞の選考に関わり、『古今の名碗』『古陶百話』『徳利と盃』『定本北大路魯山人』など多くの著作を残している。古陶磁から近現代陶芸まで幅広く見続けた経験と知識は、当時の陶芸界でも高く評価されていた。
古美術の世界では、現在も「初代黒田陶々菴識箱」という言葉を目にすることがある。特に魯山人作品をはじめ、陶々菴が作品を見て箱書をしたものは、その伝来や評価を考えるうえで重要な資料となっている。
陶々菴は自ら器を作った陶芸家ではない。しかし、優れた作品を見いだし、その価値を伝え、作家と蒐集家を結び、後世へ残す役割を担った。初代黒田陶々菴の生涯は、「作品を見る人、伝える人」が日本の陶芸文化をどのように支えてきたかを示す、ひとつの重要な例である。
【参考】志野焼
志野焼は美濃地方にて安土桃山時代に焼かれた白釉薬を使った焼き物で、紅志野や鼠志野、練込志野など幾つかの種類がある。
可児市久々利~土岐市久尻にかけて産出する耐火温度が高く焼き締りが少ない五斗蒔粘土や百草土という鉄分の少ない白土を使った素地に、志野釉(長石釉)という白釉薬を厚めに掛け焼かれる。
通常、釉肌には肌理細かな貫入や柚子肌という微小孔が多数あり、釉薬の掛かり薄い釉際や口縁には、緋色の火色と呼ばれる赤味のある景色が出る。
志野の最大の特徴として、絵付けがされたことが挙げられる。これは日本陶器史上画期的な事であった。
総じて大振りな素地に筆を使い鉄釉で絵を描き、長石釉を掛け、じっくり長時間かけて焼き上げられる。
下絵は身近な風景や物が簡素に描かれることが多く、物によっては、素地、釉薬の中の鉄分が焼成段階に緋色の景色を作り出す。大振りな器体にたっぷり厚く掛けられた長石釉の白さ、柚子肌の中から浮き上がって見える下絵が志野の最大の魅力である。
